死ということ
ふと、死について考える瞬間がある。
私が初めて体験した身近な人の死は母方の祖父の死である。
その頃たしか私は小学校低学年か、もしかしたら保育園児だったかもしれない。
かすかに覚えている祖父はいつも床に伏せており、どんなことを話していたか、どんな声をしていたか顔をしていたかはまったく覚えていない。
ただいつも祖父のまわりは空気が固まったかのようにひっそりとした雰囲気が漂っていたように思う。
祖父のお葬式のこともよくは覚えておらず、覚えているのは何周忌だっただろうか、やけに寒い冬の日にだだっぴろいお寺で法事をしたということ。
当時の私は当然のことながら死について何かしらの感慨を持つこともなく、お坊さんの講釈に退屈しながら正座のせいで足が痛くなるのを必死に我慢していた。
その次はよく”西のおばちゃん”と呼んでいた祖叔母の葬式。
これもやはり小学校の低学年で、葬儀の間何度も何度もあくびをしては表情の硬い大人たちのことを不思議に思っていた。
死とは永遠の別れである。
その”永遠”の意味を理解できずにいたあの頃のことを今になって振り返るとやりきれない、というほどではないにしろやはり心苦しく思う。
確かにことこまかに祖父や祖叔母のことを覚えているわけではないが、それでも”嫌な思い”をした記憶はまったくない。
いつでも穏やかで、そこは”たまにいく楽しい場所”だったのだろう。
そうして長い時が流れ、私も大人と呼ばれてもおかしくない年になっていた数年前。
小さな頃から共働きをしていた両親がいない間いつも世話をしてくれた父方の祖母が他界した。
その知らせを聞いたときのことをよく覚えていない。
今でも霞がかかったかのようだ。
たしか知らせは私がバイト中のことで、しかしながらその日は結局予定の時間まで仕事をしてから帰ったように思う。
その後のことがよく思い出せない。
気づけば私は着替えて葬儀場にいた。
弔問者が幾人もやってきては私たちに何かしらの言葉をかけていた。
私はそれらの言葉にたいしてどういった表情をしていいのかわからず頭を下げては名簿の記入をお願いしていた。
そして厳かな、痛いほどの沈黙が立ちこめたその場で葬儀は行われた。
読経が足下から響く中、嗚咽や鼻をすする音がまるで絶やすまいとするかのようにあちらこちらで奇妙に一人一人代わる代わるあがる。
そして故人への焼香と最後の別れを交わしていく。
祖母はとてもとても小さくなっていた。
私がよく覚えているのはいつでも元気で、よく柳眉を逆立てては怒る祖母の姿だった。
けれどいつでも私が学校から帰ると母の代わりに夕飯の準備をしていて、ときにはおかずのつまみぐいを”すすめて”くれていたものだ。
「揚げたてやけぇ気をつけんさいや?」
そういっては優しく笑って皿に何品か盛ってくれるのだ。
そして今でも一番印象深いのが、私が親元を離れ、東京の専門学校にいっていたときのこと。
仕送りの食べ物やら何やらが入った段ボール箱の中にあった、簡素な封筒に入った一通の手紙。
そこには、
「あんたがおらんでさみしい。たまには電話してくれんさい」
と書かれていた……
祖母の晩年は家の事情でいろいろとあった。
私は祖母とは別の場所で暮らすようになり、よくて月に一度程度しか会わなくなっていた。
それまで毎日必ず会っていたのに、だ。
祖母は最後に会ったその日まで、私の将来を心配していた。
そして、また一緒に暮らしたいといっていた。
その祖母が、亡くなった……
最後の別れをすませ、人の流れに逆らうこともなく棺のある部屋を出た私は、そのとき初めて、
祖母の死に泣いた
たまらなくなって、その場にいることができずトイレに駆け込み、洗面台に片手をついて俯き、残ったもう一方の手で口元を押さえ、
泣いた
次から次へと涙が溢れ、押し殺そうとしても喉を突き上げるかのように荒々しい嗚咽が口から吐き出された。
そのときの私の頭の中を支配していたのは、祖母への激しい後悔だった。
家族の中で一番祖母と仲が良かった私はその反面、祖母の怒りのはけ口によくなっていた。
それを私はとても疎ましく思っていたのだ。
進路のことや就職のことなど、祖母はいつでも私に厳しく説いていた。早く定職につきなさい。まっとうな大人に早くなりなさい、と。
当時の私は自分のやりたいことをしてばかりで(いまでもそうなのだろうが)これっぱかりも祖母の言葉を真剣に受け取ろうとはしなかった。
しかし、母には申し訳ないが、私がここまで無事に成長できたのはひとえに祖母の存在があったからに他ならない。
何が良いことで、何が悪いことなのか。
もちろん成長していく過程で触れていく学業や部活、集団生活で学んでいったことは多い。
だがその基礎となったものは祖母が教えてくれたのだと思う。
なによりも、学生時代まで家族でもっとも長く私の側にいたのは祖母だったのだから。
その恩返しが「何一つできなかった」と、私は激しく後悔の念にかられ、涙を流したのだった。
死とは永遠の別れ。
世話をすることもされることも、喧嘩をすることもなければ言葉を交わすこともできず、恩を返すことなど決して叶わない。
これから先、ずっと……
我ながらそんなことを思っているにもかかわらず愚かなことに、お墓参りには節目のときにしかいくことはない。
いまでも私は祖母不幸者だろう。
ただ、変わったとすれば、祖母との色々な日々のことに今の私はとても感謝している。
もちろん、鬱陶しいなぁと思ったことがあったことを否定するつもりはない。いまでもそのときの気持ちに変わりはない。
けれどそれらもひっくるめて感謝の気持ちを持つことができる。
祖母の死について。
今私が一番に心に誓っているのは、いつか私が生をまっとうしたときにもしも祖母と再会できたとき、
「胸をはっていられる自分でいたい」
ということだ。
そして、もしも祖母と再び言葉が交わすことができたならば、きっと私は私をあのときまで育ててくれたことにたいいて、
「ありがとうね」
と言うことだろう。
なんとなく。そんなことをしたためたくなった夜の話。