茜色の葉書

 橋を渡る電車の音に僕は目を開けた。
 どうやらいつのまにか眠っていたようだ。
 と、向かいの席から、クスクス、という笑い声が聞こえる。
 彼女は僕が起きたのに気付き、いったん笑いを引っ込めたが、すぐにまた笑い始めた。
(うわっ、ヨダレが垂れてる……)
 僕は慌ててハンカチでよだれを拭い、軽く咳払いをした。照れ隠しであることはいうまでもない……。
 僕らはいま電車に乗って、彼女、弓華の逢いたがっている京介という人が住んでいるはずの場所へ向かっている。
 念のためにと持ってきたポケットサイズの時刻表で調べると、今日中にその土地へ行くためのタイムテーブルは、いま乗っているこの電車がギリギリ、最終。
 電車に乗り込んでからそれに気が付いた僕らは、お互い、ホッ、としたあとなぜかおかしくなって二人して二駅ぐらいの間ずっと笑いが治まらなかった。けど、笑いながら、僕は頭の中で、彼女と二人きりで一泊過ごしたかもしれなかったことを考え、内心ちょっと、ドキドキ、していた。
 少しだけ、残念……かな。
 ……って、何考えてんだか、僕は。
 彼女はいま好きな人のところに行こうとしてるのに。
「弓華さんは、いままでどこにいたの?」
 暇そうに、ぼおっ、と車窓から見える夜景を眺めていた彼女に僕はそう尋ねた。会社帰りの眠りこけたおじさん二、三人しかいない車内に、僕の声は電車の規則的な音と振動に調子を合わせるかのように自然に彼女の耳に届く。
 彼女は一度僕に視線を向け、またもとのように外の景色に目を移した。
「外国に、一年くらい、かな……」
「へぇ、留学? 帰国子女なんだ」
 彼女は、髪を一筋人差し指に絡めてクルクルしながら、窓に映った僕に不思議な笑みを向け……、
――痛む……胸の奥。
「そういえば涼くんって旅とか好きなの?」
 簡単な自己紹介は駅に向かう途中にすませてあった。相手の名前を知っておきながら自分は名乗らないなんて失礼と思ったから。彼女が僕の名前を下で呼ぶのは、僕が、最初に弓華という下の名前を知ったせいで改めて上の名前で呼ぶのに何となく変な感じがしたからだ。
「ん? どうして?」
「だってキャンプ用品いっぱいもってるみたいだったから。やっぱりそういうのってキッカケとかあるのかな?」
 確かに彼女のいうとおり、僕は旅をするのが好きだった。なぜなら、旅の間は知り合いと関わらなくていいから……。
「べつに……なんとなく、だよ」
 彼女は僕の答えをどうとったのか、不意にまったくべつの話を切り出した。
「京介とわたしが初めて出逢ったのは、高校にあがってしばらくたったころだったわ」
 両手をシートにつき、足をブラブラさせる彼女。自分の爪先を見つめるその瞳には、仕草とは裏腹な大人びた、そして昔を懐かしむやわらかな光があった。
「どこの部活にもはいってなかったわたしは、放課後の屋上で暮れていく陽を眺めるのが日課だった……」
 電車の揺れに合わせて軽やかなステップを踏む黒髪。
「いつもと同じようにわたしの横に、スッ、と寄ってきて、カレ、こういっ
たの。
『風邪、ひくよ』
 って……。
 これから夏にはいるって時期に風邪ひくよ、なんて、ヘンな人だと思わない?」
 彼女はおかしそうに、クスクス、と笑っていたけれど、その笑みは外の凍て付くような冬の寒さとはまったく反対の、春の陽のようなあたたかさとやさしさを含んでいた。
 スッ、と顔を上げ、遠くを見つめる。きっとその先にあるのは過去の思い出と茜色の空。
「やさしかった。ホントに……」
 不意に雫をたたえ始めた瞳に、僕はあわてて話題をそらそうとした。
「弓華さんが留学したのっていつなの?」
 と、いってから自分が馬鹿なことをいったことに気付く。留学、イコール京介と別れることを意味するのだ。
 自分の愚かさに頭を、ガシガシ、と掻く僕に、一瞬、キョトン、としてから彼女は笑みを浮かべ、
「もっと前から予定はあったんだけどね」
 ふと気付くと、電車がスピードを落とし始めていた。どうやらそろそろ駅に着くようだ。たしか次は終点で、乗換えをする予定。
 停車する前に時刻表をチェックする。
 時刻表から目を離し、彼女を眺めると、
「え!?」
 僕の正面にいたはずの弓華がいなかった。――また、消えた……。
「どうしたの?」
「え?」
 ドアにもたれかかっていた彼女が不思議そうな顔をして僕を見ていた。
 いつのまにか彼女は席を立っていたようだ。 そりゃそうだ。人が突然消えるわけがない。
 でもいつのまに席を立ったんだろう?
 初めてあったときもそうだったけれど、彼女は異様なくらい存在感が薄い。
 人一倍他人を意識する僕が感じることがほとんどできないほどの存在感……。
 極端にいってしまえば、そこに”人はいない“という感じ。
 やがて電車は完全に速度をなくし、僕らは両の手で足りるほどの人しかいないホームに降り立った。

「はい、コーヒー」
「ありがとう」
 三月に入ったとはいえ、まだまだ夜は冷え込む。渡された缶コーヒーの火傷しそうな熱もいまの身体にとってはありがたい暖かさだ。
「あれ? 弓華さんのぶんは? お金、わたさなかったっけ?」
「ううん。わたしはいらないから」
 遠慮してるんだろうか? でも、上がワンピースとシャツ、ストールだけという彼女の格好はどう考えても僕よりも薄着だ。
 自分の飲みかけのコーヒーを彼女に渡そうとしたが、彼女はいらないといって断った。
「でも、冷えるよ?」
「ホント、いいの。わたしには必要ないから。それとも、そんなにしたい?」
 悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「なにを?」
「か・ん・せ・つ・キ・ス」
「あ!? いや、その、えと……」
「フフ、冗談よ、冗談」
 まるで年上の女性にからかわれた感じだ。
 カッコわるいな〜、まったく……。
「電車、遅いわね」
 ホームの白線の上に立ち、後ろ手に指を絡ませ、覗き込むように左右を眺める。
 こうやって誰かの一挙一動を眺めることなんて、随分となかったように思う。
「うん。あと十分くらいだったと思うよ」
「ふ〜ん」
 クルリ、とスカートの裾をひるがえしながらターンしてまた僕の横に戻ってくる。
 東京駅ほどではないけれどかなり広いホームには、僕と弓華の二人。
 眼下に見える駅前の街並みは、鮮やかなネオンに彩られている。下よりもホームの方が明るいのがなんとも妙な感じだった。
 明るい中の静寂がこれほどまでに寂しく思えるのはこれが初めてじゃない。伊達に何度も旅はしていないから。
 けれど弓華はこの静けさにたまらなくなってきているのか、両肩を抱きかかえ、うずくまり少し震えていた。
「はい……」
 コートを彼女の肩にかける。
 彼女は戸惑ったように僕を見上げた。
「やっぱり、冷えるから、ね……」
「……ん」
 あいかわらずの”いいやつ“な行動だと思ったけれど、悪い気はしなかった。
 再びやってくる静寂。けれど、それはさっきまでのものとは違う、温かな静けさ。
 僕は彼女に惹かれ始めているのかもしれない……。
 出逢ってまだ半日も経っていないのに。
――彼女には好きな人がいるのに……。
 頭が疑問を投げかける。
 彼女のどんなところに惚れたのかと。
 理性が理屈を求める。
 おまえの恋はそんなに簡単なものなのかと。 そして心の中の自分がこう語る。
――彼女には好きな人がいるのに……。
 と……。
 不意の入線のベルがホームに響き渡る。
 それからほどなくして電車がやってきた。これに乗れば目的地まで行ってくれる。
 僕らは立上がり……、
「きゃ!!」
 まったく不意の突風が僕らを襲った。
 僕は少しよろめいた程度。けれど弓華は、
「大丈夫!?」
 突然の風が羽織っていたコートを目一杯はためかせてしまい、堅いアスファルトの地面に引きずられるように膝から倒れてしまった。
「大丈夫、それより電車」
 そうだ、とりあえず電車に乗り込まないと、これに乗れないと野宿――
「あ!?」
 彼女の手をとって電車に走ろうとしたそのとき、彼女が何かに気付いて立ち止まった。
「どうしたの、はやく!」
「コートが、階段の下に」
 よりによって僕のコートがホームに上がるための階段の一番下まで風に飛ばされていた。
 そして、電車は無情にも、定刻通りに発車していった。
「ゴメンなさい……」
 弱々しい声。
 弓華は僕を見上げ、眉寝をちょっと寄せて、それから頭を下げた。
「いいよ、べつに」
 乗れなくて困るのは弓華で、僕は逆に……。
「それより、膝、だいじょうぶ?」
 と、彼女のケガのことを思うとふいに強烈な不安が僕を襲った。
「大丈夫、なんともないわ」
 彼女は一瞬、ビクッ、として平常を保とうと目一杯の努力をしたけど……はっきりいって、動揺が引きつった笑みのせいでまるわかりだった。
「ちょっと見せてみて」
 かがみ込み、スカートをたくしあげようとする。落ち着いて考えればかなり危ない行動だけど、このときの僕は不安が先立ってそんなことなどお構いなしだった。
「ダメ! 大丈夫だから」
 スカートに手が掛かるより先に、しゃがみ込んで膝を押さえる彼女。
「そんなわけないだろ、あんなに派手にコケたんだから!」
 なぜかかたくなに膝を見せようとしない彼女に疑問を感じるよりも、僕は心の中で膨れ上がった不安で半ば強引に彼女の手をのけた。
「ダメ!」
 手の下から現れたのは、アスファルトの黒い泥と紅い血が滲んだ、痛々しい擦り傷。
「ほら、こんなに血が……」
 僕はポケットからハンカチを取り出し、傷口に巻いた。
「あ……」
「いいからいいから。それより、とにかく駅をでよっか? もう電車ないし」
「ゴメンなさい……」
 僕は軽く笑みを作ってみせ、彼女を立ち上がらせると、二人してホームを後にした。
 
 駅近くに公園を見つけ、巻いたハンカチを一度とり、水で湿らせてから怪我を拭く。
「しみる?」
「ううん……」
 弓華はスカートを膝の少し上までたくし上げ、裸足になっている。寒いかもしれないが、最初に水で軽く傷口を洗い流すときに足先まで水が滴って靴が濡れてしまうといけない。
「寒い?」
「ううん……」
 さっきから彼女はあまり話さない。電車に乗れなかったことを気にしてるんじゃないみたいだけど。なんといったらいいのか、変な言い方かもしれないけど、不思議そうな表情をしている。傷を、ジッ、と見て。
「ゴメンね。ハンカチ」
 傷を拭き終わると、彼女はそういった。
「だからいいって」
 ハンカチを洗い流してから、また傷口にあててずり落ちない程度に縛る。
 それから僕たちは公園のテントウ虫ドームの上に座って、何をするでもなく、景色を眺めた。と、いっても、眺めるほどの風景はそこにはなかったけれど。
 さっきまでの漠然とした、それでいて強烈な不安感はいまはもうなかった。
 あれはなんだったんだろう……。
 とにかく、電車がなくなったいま、きょうはここで一夜を明かさないといけない。単純に金銭的なことを考えたのと、なにより彼女と“泊まる”ということに抵抗、ではないが、引け目を感じたからだった。
 夜の公園は妙に寒々としていて、こんな状況でなかったら、あまりいる気にはなれない。ポツン、と公園の入り口に立っている電灯は、辺りの雰囲気を和らげるどころか、逆に公園の寂しさを増すだけ……。明りに照らされた錆びたブランコや鉄棒は、荒涼感すら漂わせていた。
 ヒュッ、と音を立てて、風が弓華の髪をなびかせる。裸足でテントウ虫ドームに腰掛けた白い服の彼女は、どこか奇妙で、そして綺麗だった。
「中に入ってきょうはもう寝よう。明日は朝一の電車に乗るんだから」
 そういって、拾ってきたダンボールをドームに敷き詰め、僕らはたいした会話もしないまま、眠りにつくことにした。
 なんだか浮浪者の気分……。
 そして横になろうとしたとき、
「ねぇ……」
 彼女が話しかけてきた。
「なに?」
「えっと……ううん、なんでもない」
「なに、いいなよ」
 一度話をフラれると気になるものだ。
 彼女は膝を抱え、少しためらい、
「みえなかった?」
 と顔を半分スカートにうずめながら、そんなことをいった。
 いいたいことがよくわからず、表情だけで、何を? と聞き返す。
「だから、その……ホームで、ね、スカートおもいっきりめくったとき……」
 ポソッ、と、
「パンツ……」
 暗闇で弓華には見えなかっただろうけど、そのときの僕の顔は熟れ過ぎのリンゴよりもまだ赤い顔だったと思う。
「みえてないって、そんなの! いいから早く寝なよ、明日早いんだから!」
 そんなの、といういいかたもひどい気がしたけれど、僕は、パッ、と彼女に背を向けて横になった。
 どんなふうに彼女がとったかはわからないけど、すぐに彼女も横になり
……そして、
「ありがと……ハンカチ」
 コートは貸したままだったけれど、不思議と寒くはなかった……。

――そこはいつだって純粋な空間だった。
――自分を実感できる場所だった。
――打ち寄せる波の音と肌を刺す潮風。
――茜色……空……海……。

 寝返りをうったときに、ダンボール越しに肩の下に小石の感触が伝わってきたせいで、僕は目が覚めた。
(あれ? 弓華さんは……)
 隣で同じように寝ていたはずの彼女の姿がそこにはなかった。
(まさかまた消えたんじゃ)
 べつにいままでも消えたことはなかったのだけど、そんなふうに思ったとき、ふと、ドームの穴から差し込む月明りに影がさしているのに気付いた。
 ドームの外に出て、彼女を見た。
 微かな月明りの中、彼女は膝を抱えて顔をうずめ、白い服は月光の加減で青白く燐光を放っているように見えた。
(綺麗だ……綺麗だ、けど……)
 僕には彼女がとても小さく、弱々しく見えた。
 活発というほどの明るさではないけれど、昼下がりの陽光のような明るさ。物静かと思えば悪戯な茶目っ気をだしてみたり、意外と頑固だったり、不意に塞ぎ込んでみたり……。
 ちょっとした違いの一つ一つが、僕の心を不思議と惹く。
――惹かれて……
「京介……」
 不意に彼女がとても遠い存在になる。
 彼女は顔を伏せ、震え、そして、泣いていた。
 逢いたい人を想って……。
 僕は何もできずにいた。僕にできたのは彼女に気付かれないようにドームの中に戻ることくらいだった。
 いまは、出るべきじゃない。
 いま出て彼女に触れていいのは、きっと京介という男だけだ。赤の他人である僕が、触れてしまってはいけない。
 それは彼女のことを想うがゆえ……。
 そう、彼女のため、なんだ。彼女の……。
 僕は彼女を京介のところへ連れて行く。
 それが、僕にできる彼女への想いの証しになる、きっと。
(絶対に彼女を京介さんのところに連れて行こう)
 それは哀しみと、想いのため……。

――足をブラブラさせる仕草……。
――髪を、クルクル、とするクセ……。
――お気に入りの白のワンピース……。
――走れない……。

(寒いな、やっぱり……)
 再び僕は眠りについた。


←backnext→