茜色の葉書
翌朝、予定通り朝一の電車に乗り込み、僕らは目的の駅を降車した。それからまず、コンビニエンスストアに寄って、この辺りの地域マップを買う。
「弓華さん、だいじょうぶ?」
「……え? ん、なにが?」
「いや、なんかさっきから顔色悪いから」
起きてからここまでの彼女は、逢ってからいままでの中で一番明るかった。はっきりいって。京介さんにどんどん近付いていっているのだから当然といえば当然だとは思うのだけど……。ただ、近付くにつれて、彼女の顔色が悪くなっていくのが気になってしかたなかった。それにときどき話しかけてもすぐには反応せずに、ぼお、っとしていることが多くなっている気もする。
「べつに、なんともないわよ。ぜんっぜん元気!」
そういって、むん、っと力こぶをつくってみせる。
空元気には見えない。やっぱり僕の思い過ごしなんだろうか。
「どうでもいいけど……通勤ラッシュの時間だから、あんまり目立つこと、しないでね」
見た目にかわいい女の子が、仁王立ちして力こぶつくっている様に、街中でキリンでもみたような顔をして、通り過ぎて行く人々。
「や、やだ!」
パッ、っと顔を赤らめて捲っていた袖をおろし、彼女は逃げるように歩き出した。
「なんだかなぁ……」
彼女のそういうところが……いや、やめよう。
「弓華さーん! そっち逆方向だよー!」
と、いうことで彼女のお願いもあって、取り敢えず人通りのほとんどない朝の海岸線に移動――けっこう恥ずかしかったらしい――。
そこで地図を調べる。目的地は歩いて行けない距離じゃないみたいだ。
「さて、じゃぁ行こうか」
「うん。でもその前に」
「どうかした?」
「いい景色だと思わない?」
腰くらいの高さの防波堤に肘をついて弓華は海を何か感慨深げに眺めている。
朝靄が薄れ、朝焼けと朝陽とがまるで潮の満ち引きのように、寄せては返していた。
海のその身は一刻、また一刻、微妙に色を変え、囁くような声音は永きに渡る追憶の日々の想いを馳せるかのよう……。
「不思議よね……海も、空も、その土地々々によっていろんな顔を持っているけれど」
「そこにあるのは、やっぱり海と空。どんなにそこに違いを見つけようとしても……」
ハッ、として彼女が僕を振り返る。
僕は、いま……何を……。
「この、景色のせいかしら……」
一瞬の心の共鳴。
次の言葉が自然と口をついて出てくる。
わかる……その言葉の続きが。
「行こうか」
けれど僕はその続きを口にすることはできなかった。口にしようとした瞬間、脳裏に昨日の彼女の寂しげな姿がよぎったから……。
――彼女を、京介さんに逢わせなきゃ。
その考えが、僕を思いとどまらせていた。
大きいとも小さいともいえない街を、地図を頼りに僕らは歩いていたのだけど、
「ほんと、だいじょうぶ?」
どうも弓華の様子がおかしい。肌の色は最初に見たときから透き通るように白いとは思っていたいたけれど、どちらかというといまは青白い。
けれど、本人はいたって、
「心配症ね。なんならこの商店街抜けるまで競争してもいいわよ」
そういって笑い返す。その言葉が僕にどれほどの不安を生んでいるか気付かずに。
けど、何か……何かが引っ掛かっていた。
「どうかしたの? 涼くん」
「いや、いこう。もう少しだ……」
一歩一歩が妙に重い。
開店にはまだ時間がある商店街は、異様な静けさをはらんでいて、僕らの足音だけが無機質に響いていた。通りを挟んだ店をつなぐように造られたアーチ型アーケードが、仄暗い洞窟を連想させ、出口へと向かっているのに、僕にはまるで洞窟の奥深くに潜り込んで行っているようだった。
その奥には……。
唐突に陽の光が瞳を刺し、僕は眩暈を少し感じながら、辺りを見回した。どうやら商店街を抜けたらしい。
いつのまにか隣の弓華がいない。
彼女は僕よりも遥か前を歩いていた。
不安がまた僕の胸を締め付ける。
それは恐怖にも似た感覚で、僕は走り出さずにはいられなかった。
遠くに見える彼女の姿が朧気な、霞のように感じられ、僕は全力で走る。けれど、近付くどころか、その距離はどんどん引き離されていき、ついには見えなく……。
「涼くん?」
気が付くと僕は彼女の隣にきていた。
全身から、ドッ、と冷たい汗が吹き出す。痛いくらいに動悸が激しい。
「どうしたの? 気が付いたら後ろのほうで立ち止まってるし、かと思ったら全力疾走してくるし……」
「あ、いや……靴の紐がほどけちゃって」
心配そうな顔。気遣ってくれている……。
たったそれだけのことが、うれしかった。
無理に演じなくてもすむ、意識しなくても、彼女は僕のことを気に掛けてくれる。うぬぼれでもいい。自信過剰でもいい。そう思える存在が、僕にはいままで……。
「ここだ」
住所と地図とを確かめる。
中に入り、階段脇の郵便受けから確かにここに住んでいることも確認する。
いよいよこの短い旅も終りを告げてしまう。
そう思うと、彼女に対する想いが言葉を紡ぎそうになったけど、彼女の喜びに満ちた顔がそれを押し止める。結局のところ僕は”いいやつ“しか演じれないのかもしれない。
――じゃあなぜ、彼女のためにここまで?
弓華は軽い足取りで階段をかけ上がっていく。顔色が悪いのはあいかわらずだが、満面の笑みで、瞳は喜びの涙で潤んでさえいる。
部屋の前。僕は彼女より一段下がったところで彼女を見ていた。彼女は両手を胸の前に組んで深呼吸をし、ドアのノブに手をかけ、
と、そのときだった。
「おい、はやくしろよ」
「はーい! おばさん、おじゃましました」
中から男女の声がしたかと思うと、ドアが内側から開かれ、
「京介くん、今日はどこいくの?」
「そうだな、ん?」
男は腕に一人の女性を絡ませたまま自分を見つめて硬直している弓華に気付くと、
「どちらさま?」
一言――
その一言は彼女の何かを打ち砕いた。
たった一言、たった、一言……。
「弓華さん!」
彼女は口元を手で押さえながら、階段を駆け降りて行った。
「弓華、だって!?」
僕は振り返り、京介の胸倉を掴むと、
「あんた、なんであんなこといったんだ!」
あれだけ、外国から帰ってきて、ここまでずっと彼のことを想い続けながら旅してきた彼女。深夜に、一人うずくまって泣きながら名前を繰り返していた寂しげな姿。
くやしいほどの想いが、短い旅の中で僕の心に伝わってきていた。それなのに……、
「あんたは、あんたは……」
「そうか、弓華だったのか……」
京介は自分の横にいた彼女に部屋の中で待っているよういうと、ドアを閉めて、階段に腰掛けた。
僕はすぐにでも彼女を追いかけたかったのだけれど、彼がそれを止めた。
「わからなかったな……」
膝の上に肘をつき、組んだ手の甲に顎を乗せ、呟く。
「そういわれると、あの頃と髪の長さが違うくらいで、外見はあまり変わりなかったな」
「じゃぁどうして、すぐに彼女だと気付かなかったんですか」
彼は、ちょっと考えた後、不確かな答えを手探りするように答えた。
「彼女らしくなかった……とでもいえばいいのかな。さっきの彼女はあまりに、その、なんというか、存在感がなかったんだ」
その言葉を聞いて、ハッ、とする。
この人も僕と同じことを感じたのだ。
「弓華はとりわけ元気とか、活発って感じの娘じゃなかったけど、存在感だけは人一倍あったんだ。積極的に行動するタイプじゃないけど、気が付くと、彼女が中心になっていたり、そんな感じだ」
あれ? それって、どこかで……。
「涼くん、っていったね」
「はい……」
「僕が、弓華を忘れて他の娘と付き合っていることに腹がたつかい?」
無言で頷く。
「だろうね……でも……」
視線を階段の狭い踊り場に向け、
「弓華は、僕のことを好きだったワケじゃないんだ。僕に好意を持ってはいたけれど、それとは別に、常に僕に誰かの面影を重ねていたふしがあった……」
懐かしげな、そして寂しげな吐息を、フッ、と吐く。
「いつ、どこだろうと、自分は自分。けど、今の自分はこの瞬間にしかいない……」
その言葉は……。
京介は立ち上がり、ドアに手をかけ、
「弓華は高三になったとき、もともと弱かった身体がさらに悪くなって、外国の病院に入院するために日本を離れたんだ。あの様子だと、もう治ったんだろうな」
身体が弱い……?
「さて、そろそろ戻らないと、今度はあいつが泣くから」
そして彼はドアの向こうへと消えていった。 何かがわかりかけていた。いや、初めからそれはわかっていたことなのかもしれない。 僕は走った。洞窟のような商店街を、地図を買ったコンビニを、二人で眺めた海岸を、思い付く限りの場所を……。
しかし、彼女はどこにもいなかった。
無一文の彼女が電車で帰れるはずがない。この街のどこかにいることは確かだ。
やがて、太陽が頂上にさしかかる頃、僕は砂浜で寝転んでいた。コートが砂だらけになるのも構わず、大の字になって。もっとも、走り回っていたおかげで、汗がコートにまで染み渡っていたので、いまさらどうでもいい感じもしたけど。 全身の疲労が睡魔となって、僕の瞼に襲いかかる。心地好い潮風と、BGMとしてはなかなかの潮騒を耳にしながら、僕は深い眠りの回廊へと誘われていった。
――どれだけ自分を変えようと思っても、結局、自分は自分。変われないのよ。
知っている……この言葉、この声。
――心配症ね、涼くんは……。
茜色の空と、大人びた少女。
――転校するの。お父さんがもっといい環境のところに引っ越そうって……。
病弱で、でも、明るい少女。
――わたしもね、あなたと同じなの。いつも他人の瞳ばかり気にして……。
髪を指に絡ませるクセ
――でも、あなたには、違う……。
瞳を開くと、誰かが僕を覗き込むようにして見下ろしていた。夕陽の逆光と瞳を開けたばかりということもあって、相手の顔はよくわからない。でも、それが誰かはわかる。
「ようやく起きた? 居眠りくん」
軽く砂を払い、立ち上がる僕。
「やっと思い出せたよ……」
「え?」
キョトン、とする彼女。
「ゆか……」
その言葉に、彼女は金縛りにでもあったみたいに、ビクン、として僕の顔を凝視し、
「そう、だったのね……」
スッ、と視線を落とす弓華。
「なんでいままで忘れてたんだろうな」
彼女を柔らかく包み込む、茜色の空と海。 閉ざされていた記憶が、ゆっくりと……布に水を落としたように広がる。
「名前を聞いてもなかなか思い出せなかったはずだよ。あの頃のゆかは満足に走ることさえできなかったんだから……」
そっと手をのばし、彼女の頬に触れる。
僕に気付くと決まって走ってそばに寄ってくる彼女を心配してたしなめていた頃を思い出す。僕の中の時間が止まった彼女は、走れない、病弱な女の子……。
と、弓華は身を引いて海へと歩き出した。
波打ち際に近付き、僕は足を止め……
「ゆか……?」
そのまま海の中に入っていく弓華。
海水が膝までつかるあたりで振り向き、
「もう、時間がないわ……」
「なに、いってるんだ……?」
「わたし、いま病院のベッドの上にいるの」
唐突な言葉に僕はそれを理解できずに……いや、本当はわかりかけている。けれど、心がそれを拒否しているのだ。
「なに、いってんだよ、ゆか」
気付けば僕は濡れるのも構わず、海の中に入っていっていた。
そして手をのばし、彼女の頬に触れようと、
「そ、んな……」
――すりぬけた……。
確かにさっきは感触があったのに……
――触れることができない。
それだけで、その事実だけで、僕はすべてが終わった気がした……。
そして弓華は語り出した。
「わたしは四日前、心臓の手術を受け、そして気付くとわたしはあの夕凪ヶ浜に立っていた。手に、回復したら出そうと思っていた京介宛ての葉書を持って……どうしてかはわたしにもわからなかったけど、それを直接郵便受けに投函し、そしてあなたと出逢った……」
そういえば、よく思い出してみると切手は貼ってあっても、どこから出されようとそこに当然あるはずの消印がどこにもなかった。最初に感じた違和感はあれだったのだ。
「最初は京介に最後に逢うチャンスを神様がくれたのかと思った。でも違ったのね……」
そういって、弓華は柔らかく、そして微笑んだ。……哀しげに。
「あなたに、逢うためだったのね……」
叩き付けるような浜風で僕のコートは大きくはためいたけれど、彼女の髪や服は少しも乱れることがなかった。
「でも、そのことがバレないようにするのって結構大変だったのよ」
弓華の言葉が右から左へと流れていく。
あるのは確かな事実の認識……何も感じられず、泣くことさえもできずに……。
「コケたときなんかアセっちゃったわ。だって、いまの身体で怪我なんて、できるのかどうかわかんなかったから。でも食べ物とか寒さとかを感じないのはけっこう得かもね」
そのとき、
「ゆか!?」
一瞬、ほんの一瞬だったけど、弓華の身体が、消えたのだ。
心臓にナイフを突き立てられたとはこういうときのことをいうのだろうと僕は思った。
絶望という名のナイフが、油断なく僕の心を狙っている。
(この、感覚……まえにも)
「もう、ほんとに時間みたいね……」
弓華の身体は、スッ、と浮いたかと思うと、海面すれすれを滑るように、後ろに引いていった。
「もう、お別れね……」
――別れ……。
頭の奥の方で、何かが砕けた。
次の瞬間、
「ゆか――!!」
僕は濡れるのも構わず、海の中に駆け出していた。
「涼!」
(あのころも、そうだった……)
いますべきことが、僕にはある。
(神様、まだ、まだ弓華をつれていかないで。あと少し、ほんの少しの時間でいいから、僕に、僕に時間を……)
弓華のそばまで近付いたとき、海水は僕の胸の辺りまでの深さになっていた。
「涼! ダメ、はやく岸にあがって! そんなことしてたら」
海面に立った弓華が、瞳一杯に涙を浮かべて、僕に叫ぶ。
僕は頭を横に振って、
「いまいわなくちゃ。あのときにいえなかった、そしていまもいえずにいたことを……」
いつも他人のことばかり気にして、何一つ自分の意見を主張しようとしなかった僕。
他人に疎ましく思われるのが、嫌われるのが、そして何よりも、自分が傷つくことを恐れていた……。
(だから僕は恋をしなかった)
恋は、他のどんなことよりも傷つけ合うことが多いから。
――どれだけ自分を演じてみても……。
あのときも僕は別れ行く彼女に何もいうことができなかった。
――転校するの。もっといい環境のとこへ。
そして、ひたすら僕の言葉を待ち続けた彼女は、微笑み、去っていった。頬を濡らし。
――バイバイ……。
溢れ出る雫で顔が、ぐしゃぐしゃ、になっている弓華。心から僕を心配してくれる弓華。子供っぽい仕草と大人びた雰囲気を合わせ持つ弓華。
――弓華 ユカ ゆか――
「お願い! 早く岸にあがらないと!」
春にはまだほど遠い季節。海の水は、ぞっ、とするほど冷たく、気を抜くとそのまま海に飲み込まれていってしまいそうだ。服はすでに氷のよう冷たい重りでしかなく、僕の体温を急激に奪っていく。
けどそんなことは問題じゃない。この先のことよりも、いま一番大事なのは……、
「涼、お願い! もうこれ以上、ここにいちゃダメ!」
海面から、僕の目線の位置にまで弓華は降りてきて、もう自分の意思で身体を維持することができないのだろう、触れることのできなくなった手で一生懸命僕を岸に押し戻そうとしている。
「ゆか……」
止めどなく流れる雫。夕焼け色に染まった涙はとても温かく感じられる。それだけで彼女の想いのすべてが伝わってくるようだ……。
過去、別れ行く彼女にいえなかった言葉。 現在、想っている人がいるからと自分をだまし続け、怖くていえなかった言葉。
――たった一言……
「好きだ……」
唇を重ねる。
触れることはできなかったけど、確かに。
永い、永い刻を経て、やっと手に入れることができたもの……。
ほんの一握りの素直な自分が与えてくれる何ものにも代え難いやさしさ……。
――たとえそれがつかのまのだとしても……。
スッ、と身体を引くと、待っていたように、彼女の身体は透け始め……
「…………」
――そして、消えた。
――いままでの中で、一番の笑顔を浮かべたまま……。
波間に漂う一枚のハンカチを残し……。
茜色の世界。無音の時間。
そして数カ月後、一枚の葉書が届く。
『前略 涼くん
お元気ですか? どうやらわたし、生きてたらしく、いまは体力
づくりのリハビリをがんばってます。
すごいのよ、いまじゃ百メートルくらい全力で走れるんだから!
えへへ……。
おっと、忘れるとこでした。
今度そっちに帰国する予定です。よかったら逢いたいな。
場所は、例のあの砂浜で……。
ゆかより かしこ』
fin
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